取扱い作家・作品名など

伝新海竹蔵「女性の顔」
1897-1968、テラコッタ、高さ11.5×幅8.5×奥行7.0㎝ 32,000円
山形市生。上京して「ゆあみ」などで知られる叔父の新海竹太郎の下で修業。文展で「母子」が初入選。院展を中心に「坐女」などの多くの佳品を残した。優雅な女性の顔。上部に壁掛け用金具埋め込み。

鈴木信太郎「人形」
1895-1989、油彩、カンバス/0号 360,000円
明治28年東京生まれ。白馬会溜池洋画研究所に学ぶ。大正15年に二科会展で樗牛賞。戦後、野間仁根らと一陽会を結成。生粋のカラリストで、アンチームな(親密感のある)風景画や花の絵を数多く残した。人形ながら頬は赤みを帯び唇は赤く、生きているような愛すべき小品。

清野克己「座る女」
1916-1995、油彩、カンバス/F8号
山形県上山市出身。近代洋画研究所に入り藤田嗣治、野間仁根に師事。1938年、自由美術第1回展に入選。戦後は村井正誠、山口薫、荒井龍男らのモダンアート協会に属し抽象絵画に転じた。代表作に「出を待つ女」など。矩形の暗い出入口から花飾りの座った女が漂い出るようなシュールな作品。=売約済み

相馬基一「クラマール風景」
1885-1971、油彩、カンバス/P12号 150,000円
大正10年(1921年)から12年まで渡欧。1928年作とあり、渡欧中にパリから近い小都市クラマールに行き、帰国後に完成したものか。塀の前をコート姿の女性が来る。

高畠達四郎「海の見える丘」
1895-1976、油彩、板/P3号 120,000円
1921年(大正10年)から28年まで滞仏し、藤田嗣治らと交友した。しみじみとした生活の情感が漂う戦後の「暮色」などで有名だが、これは若い頃の滞欧作。

ルイザ・チェイス「無題」
1951-2016、油彩、カンバス/仏P50号 300,000円
Louisa・Chase、1951年パナマ市生。米ペンシルベニア州ランカスターで育つ。シラキュース及びイエールの両大学に学ぶ。卒業の年75年にニューヨークで初個展。80年代米ニュー・イメージ・ペインターの一人。70年代後半に台頭したバスキアなどの新表現主義の影響も受けた。1990年作。来歴/ブルック・アレクサンダー(ニューヨーク)、サザビーズ。
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伝戸張孤雁「母子像」
1882-1927、水彩、紙/18.0×13.3㎝
日本橋魚河岸生。苦学して明治34年(1901年)に渡米し、アート・ステューデンツ・リーグなどで学ぶ。荻原守衛、中原悌二郎、中村彜らと知り合う。愛すべき小品の女性などの彫刻、創作版画の両面で活躍。小説の挿絵も描いた。左上に「和木きい子」の鉛筆書き込み。裏面にもエプロン姿の女性像。=売約済み

ルドルフ・ハインリッヒ・ツィレ「男」
1858-1929、コンテ、紙/12.5×6.4㎝ 36,000円
独ザクセン生。ベルリンの美術学校を経て、風刺雑誌「ジンプリチシムス」や「ユーゲント」にユーモアあふれる挿絵を数多く描く。勧誘されてクリムトらのウィーン分離派の会員になる。当時の民衆のあるがままの姿を彼らと同じ低い目線で時に温かく、時に辛辣に描き大衆的な人気も得た。画集(ドイツ語)付き。

寺内萬治郎「横たわる裸婦」
1890ー1964、オイルパステル、紙/26.9×45.7㎝ 280,000円
大正14年、帝展で「裸婦」が特選。終始一貫して裸婦、女性像を描き続け、優れた対象把握力が高く評価された。横たわり両腕の輪に顔を埋めて眠り込んでいるような表情と姿を一塊のフォルムとして温かい眼差しで描いている。上下からモデルを支える灰白色と黒の背景色も効果的。

寺内萬治郎「裸婦」
1890ー1964、パステル、木炭、紙/46.0×33.7㎝
大正14年、帝展で「裸婦」が特選。終始一貫して裸婦、女性像を描き続け、優れた対象把握力が高く評価された。女性を左膝を抱えた量感のあるフォルムとしてとらえており、愁いを含んだ顔の表情や赤茶色の背景も印象的。東美鑑定付き。=売約済み

津高和一「熱気」
1911ー1995、油彩、板/14×18㎝ 485,000円
1950年代以降、具象から独自の詩情にあふれた抽象に転じた。西宮市生。16歳で詩を書き始め、戦前は「神戸詩人」に作品を発表。1960年のニューヨーク・グッゲンハイム賞美術展出品など内外で高評価を得た。小品ながら、珍しい抽象初期の1958年作。

椿貞雄「静物(桃)」
1896-1957、油彩、カンバス/21.3×45.0㎝ 420,000円
上京し岸田劉生に師事。大正4年に岸田、木村荘八らと草土社を結成。白樺の武者小路実篤、長与善郎らとも交友した。劉生の絶対的な影響下にあった草土社風写実から、その死後は独自の温かみのある作風に転じた。桃の連作シリーズの一枚で、机上の中国風染付磁器と2個の桃を細密に描いたもの。静謐な緊張感が漂う。画面右上に「昭和十三年寫 十六年加筆 椿貞雄」とある。

鶴田新「Snow」
1978-、油彩、カンバス/F30号 31,000円
愛媛県松山市生まれ。住宅case17がAsia Design PRISEで金賞を受賞など、建築家(Arata-Architect Studio )としての活動の傍ら、抽象画の制作にも取り組んでいる。2021年1月23日作。雪降る情景に想を得た。

富樫寅平「子供」
1906-1951、油彩、カンバス/112.0×86.5㎝ 95,000円
新潟県出身。蒲原平野の画家である佐藤哲三らと「野人会」を結成し展覧会活動を行った。大正11年、一九三〇年協会展に入選。昭和3年上京し二科技塾に学ぶ。12年に「水浴」が独立賞。将来を期待されたが45歳で没した。文献「第5回独立展集」付き。額なし。

鳥海青児「東大正門図」
1902-1972、油彩、カンバスを板に貼付/31.0×37.0㎝ 180,000円
大正15年(1926年)24歳の時に上京し、横堀角次郎のあっせんで本郷森川町の東大正門前の下宿太平館に入る。その目の前の正門を描いたもの。横堀の子息の辰義氏の識(書面)があり「鳥海氏の作品と思うが~」とある。鳥海の大正15年作「芦屋風景」が「チューブから絞り出したものをそのままの白の使い方」と言われたが、この作品でも同様な白の扱い方がなされている。「灰っぽい茶と緑に独特な滋味をもった色調の人」(足立源一郎)との当時の評もこの作品に共通している。

鳥海青児「シベリア駅路の雪」
1902-1972、油彩、カンバス/19.0×25.5㎝
1930年(昭和5年)の渡仏時にはシベリア鉄道経由で行き、その途中、雪に覆われた駅路を見て大小の絵を描いた。そのうちの小品。パリでは海老原喜之助、野口弥太郎、藤田嗣治らと交遊した。=売約済み

高橋忠弥「中国の鍛冶屋」
1912-2001、油彩、カンバス/F8号 130,000円
昭和11年上京。戦中は新聞社、通信社の特派員として中国に渡った。40年渡仏。本の装幀も多い。中国時代の鍛冶屋などの街の風景。

津田正周「ポン・テ・ザールよりシテを望む」
1907-1952、油彩、カンバス/18.8×24.4㎝ 650,000円
セーヌ川に架かりパリの一区と六区をつなぐ橋ポンデザールから、ノートルダム大聖堂やサント・シャペルなどが建つシテ島を描いた一枚。1936年作とあり、2回目の渡仏時に描いたもの。

津田青楓「裸婦」
1880ー1978、コンテ、紙/61.0×45.5㎝
1907年(明治40年)に渡仏し、荻原守衛、高村光太郎らと交遊。プロレタリア運動に加わり描いた「ブルジョア議会と民衆の生活」が有名。33年に警察に検挙され転向。転向前の30年(昭和5年)作。力強い後ろ姿がたくましい生命力を感じさせる。髪型などからアジア系の女性と思われる。=売約済み

鶴岡政男「白い砂」
1907-1979、油彩、カンバス/SM
太平洋画会研究所に学び、靉光、井上長三郎らと親交。池袋モンパルナスの一員。応召を経て昭和18年靉光、麻生三郎、松本俊介らと新人画会を結成。戦後には自由美術協会に合流し、代表作の「重い手」「夜の祭典」など。娘のような年齢の新宿の女「ポコ」を連れ歩き描いた。優しい色調のパステル画も得意とした。白い浜と海、日光浴の足と泳ぐ人の足が何かおかしい。=売約済み

東郷青児「女性像(春)」
1897-1978、エッチング、紙/35.5×28.7㎝ 55,000円
大正8年から昭和3年まで滞払。初期のキュビズムなどの前衛の作風から、戦後はいわゆる青児スタイルの女性像に転じた。美しいブルーが若々しさを感じさせる比較的初期の版画作品。

中筋幹彦「静物」
1925-1956、油彩、ボード/27×17.5㎝ 240,000円
大阪生。東大中退。森芳雄と親交し、自由美術協会会員となったが、翌年30歳の若さで死んだ。遺作展が銀座サエグサ画廊で遺作10余点により開かれた。確信的な強い筆勢で、静物画でありながらシュールで表現主義的な雰囲気が漂う。

中山正實「少女と鳥」
1898-1979、油彩、板/F3号
1924年(大正13年)に渡欧し、サロン・ドートンヌに入選。イタリアに赴き、壁画を研究した。27年に帰国。32年からは壁画制作に専念した。中世南欧風の樹下の少女の愛すべき小品で、裏書きに「1927年 ムードンのアトリエにて作」とあり、反転したものが、翌28年の大作「新秋」のモチーフの一つにもなっている。=売約済み

野見山暁治「シャルルロワ(ベルギー)の街」
1920-、油彩、カンバス/F8号
福岡県穂波村の炭鉱経営者の子として生まれた。1952年渡仏し、58年安井賞受賞。64年に帰国し、抽象的な心象画の作風に転じていった。「四百字のデッサン」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。無言館設立にも奔走。54年ベルギー旅行中、炭鉱町シャルルロワのぼた山風景に心を動かされスケッチし、油彩数点を描いた。これはその中の一点。石炭を運び出していたと思われる崖下の線路と街並みを、上下に深みのある視点と独特の色感でとらえている。1955年作。=売約済み

野口謙蔵「秋」
1901-1944、油彩、板/23.8×33.0㎝(F4号)
滋賀県生。大正13年(1924年)に東京美術学校を卒業し、故郷の蒲生に帰った。そのまま、ひたすら近江の田園の四季や農村風景を描き続けて、日本的な土着のフォービズムと評された。昭和19年、43歳の若さで死去。野分の頃の暗く雲が垂れ込める草原をみずみずしい色彩で切り取っている。額は東京の上野桜木町の著名な額屋、浅尾拂雲堂の昔のものかもしれない。=売約済み

鍋井克之「静物」
1888-1969、油彩、カンバス/F12号
大正13年に小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。渡欧作も残した。ランプ、人形、果物、扇風機などの昭和の静物のアイテムを網羅し色彩も濃厚。昭和27年作。=売約済み