取扱い作家・作品名など
早川国彦「東京風景 数寄屋橋畔」
1888-1946、水彩、紙/26.8×36.8㎝ 55,000円
岐阜県生。上京して太平洋画会研究所に学ぶ。大正9年(1920年)日本水彩画会会員。昭和17年(1942年)二科賞、二科会員となる。まだ外堀に数寄屋橋が架かっていた頃の秋深い銀座風景。目抜き通りを都電が走り、橋上には人々が行き交う。濃い灰青色の水上には2艘の舟。画集「日本の水彩画6」(第一法規出版)に早川の作品が収められている。
林重義「カフェ」
1896-1944、油彩、カンバス/F6号 105,000円
明治29年(1896年)兵庫県神戸市生。大正15年に二科賞。昭和3年から二年間渡仏し、サーカスやパリの街の風景などを好んで描き、「ラ・フラテリニ」や「シルク」などが高評価された。一躍神戸出身のホープとして期待を集め、「舞妓(黒)」など「日本的油絵」を標榜して新展開を目指したが、志半ばで没した。渡仏作。パリのカフェの外のテーブルで憩う男女。その衣服の赤と青が効果的だ。
林重義「パリ郊外」
1896-1944、油彩、カンバス/F4号 390,000円
神戸市生。一九三〇年協会を経て独立美術協会創立会員。昭和3年(1928年)~5年渡仏し、街の夜のピエロや花売りなども描いた。帰国後は舞妓など日本的な題材の「新写実主義」へと転じた。19年、43歳で没した。パリ郊外の土と緑の風景を描いたもの。嵐を呼ぶような暗く激しい雲の流れの下を、奥の山並みへとひた走る馬車、道に沿う葉を落とした樹々、民家の屋根、電信柱。画面右下にサイン。
林倭衛「女の子」
1895-1945、パステル、紙/34.0×26.9㎝ 120,000円
林倭衛は大杉栄らの無政府主義者と交流し、大杉がモデルの「出獄の日のO氏」で広く知られる。出所は新宿の文壇バー「風紋」の元マダムで今年2月に亡くなった倭衛の娘の聖子さん。倭衛が少女時代の聖子さんを描いたものらしい。「林倭衛展」画集(2015年・東御市梅野記念絵画館)所載。同画集付き。
林倭衛「プロバンス小村」
1895-1945、油彩、カンバス/F15号
1921(大正10年)~26年、1928~29年の2回にわたり渡仏。南仏プロバンスの明るい陽光が惜しげもなく降り注ぐ緑濃い小さな村の情景を描いたもの。塀沿いのかげった道に瑠璃色の服を着た女性がたたずむ。東御市梅野記念絵画館「林倭衛画集」(2015年)所載。=売約済み
林倭衛「果物図」
1895-1945、油彩、カンバス/F3号
林倭衛は2回にわたって渡欧しているが、昭和初年(1926年)作とあり、最初の渡欧時の作品と推定される。果物の朱色や緑の色が鮮やかで印象的。=売約済み
林倭衛「クヰイの橋」
1895-1945、油彩、カンバス/P15号
仏パリの近くのクヰイの橋は数点描いており、その中の一点。鈍い色の空の下、橋と手前に蛇行した流れ、その向こうの2軒の建物と木立を情感を込めて描いている。2回目の渡仏の1928年作。カンバス裏にサインと題名。小崎軍司著「林倭衛」の口絵に所載。=売約済み
原勝郎「モンマルトル」
1889-1966、油彩、カンバス/F12号 720,000円
千葉県生。大正9年(1920年)に渡米し、11年仏パリに移る。パリの何気ない街景などを茶かっ色系ほかの渋い色調で情感豊かに数多く描き、高く評価された。サロン・ドートンヌなどに出品し画廊で複数回の個展も開いた。戦争ぼっ発により昭和14年帰国。冬のパリの曇天の街路には冬コート姿の女性が通りかかり、その先にはサクレ・クール寺院の白い尖塔が見える。昭和13年(1938年)作。
原勝郎「滞欧風景」
1889-1966、油彩、カンバス/F12号
やや朱がかった空で朝焼けなのか。明るみの中に浮き上がってくる風景。手前の枝切りをした樹々と緑のうねる地面、自動車、左手の家々と白い坂道、教会らしき建物が厚みをもって積み重なり、生動感が迫ってくる。梅野コレクション(2003年蒐)の作品。=売約済み
長谷川昇「鼓(舞妓)」
1886-1973、油彩、カンバス/F12号 180,000円
福島県生、北海道小樽で育つ。東京美術学校在学中に院展に初入選。卒業後、明治44年(1911年)渡仏。ヴァン・ドンゲンらと交友し 、ルノワールに傾倒した。パリの画廊で個展。ルノワールの影響が色濃く、色彩が鮮やかで美しい戦前の比較的初期作品と推定される。
長谷川春子「木陰の憩い」
1895-1967、油彩、カンバス/f6号 187,000円
東京生。昭和4年(1929年)に渡仏し6年に帰国。三岸節子らと「七彩会」を旗揚げし「我等の開拓しようとする美しい野はまだ無人の境です」と述べ女性画家の地位向上を目指した。戦中は節子、桂ゆきらと「大東亜戦皇国婦女皆働之図」(1944年)を制作。戦後は随想や挿絵のほか、「源氏物語絵巻五十四帖」を残した。二つの大戦に挟まれた木漏れ日の時代に目撃した幸福なパリジェンヌたち。1932年作。
板東敏雄「室内」
1895ー1973、水彩、紙/38,4×27,2㎝
徳島県生。川端画学校で学び、大正11年(1922年)渡仏。同じ船で渡った上山二郎と共に藤田嗣治に私淑し、その卓抜した描写力を藤田にも認められた。サロン・ドートンヌに入選するなど各サロンで活躍し、フランス女性と結婚。終生制作の場をパリから移そうとはしなかっため、その独自の細密技法の仕事が日本で広く知られることはなかった。自らの居室(画室)を親しみを込めて描いた珍しい水彩画。=売約済み
藤田嗣治「フランスの学校(墓地)」
1886-1968、リトグラフ、紙/18.0×18.0㎝ 110,000円
子供に恵まれなかった藤田は戦後、愛らしい少女像をよく油彩で描き、版画の題材にも子供を多用した。ジャン・コクトーのエッセイに藤田の21点のリトグラフが添えられた挿画本「四十雀」中の藤田作の一点。松本竣介も影響を受けたという濃緑の寒色系が支配する藤田の風景だが、早春なのか街路樹の枝先には若葉が萌え出している。
ジュール・パスキン「三人の女(仮)」
1885ー1930、ペン、紙/14.8×31.8㎝ 98,000円
ブルガリア生まれ。ミュンヘンの「ジンプル」誌での挿絵素描を経て、1905年のクリスマス・イブにパリに到着。モディリアニ、キスリング、フジタ、スーチンらと共にエコール・ド・パリを代表する一人として人気を得た。女たちのポーズを素早くスケッチしたもの。スタンプサイン、「Lucy Krohg」サイン、証明書付き。
ジュール・パスキン「座る少女と立つ少女」
1885ー1930、油彩、ボード/28.0×21.5㎝ 980,000円
繊細な真珠色などの淡い色彩で数多くの娼婦などの女性像を描き残した。優れた素描家でもあり、若い頃には風刺新聞「ジンプリチシムス」に寄稿した。1930年、個展の前日にアトリエで自殺。1921作で比較的初期のもの。
原精一「ドアーボォイ」
1908-1986、油彩、板/サムホール 195,000円
神奈川県生。川端画学校に通い萬鉄五郎に師事。同じ中学校の先輩の鳥海青児と非常に近しく制作したことがあり、若い頃の一時期には鳥海によく似た画風を示した。この作品はその頃のもの。林芙美子の旧愛蔵品で、洲之内徹が蛎殻町の仕事部屋に飾っていた「仏蘭西人形」(1936年作)と同時代の昭和8年(1933年)作。赤い制服を着たホテルの若いドアボーイ。
原精一「裸婦」
1908-1986、油彩、カンバス/SM 240,000円
神奈川県藤沢市生。萬鉄五郎に師事し、中学の先輩だった鳥海青児に絵を学んだ。デッサン力には定評があり裸婦を数多く描いた。これは裸婦の中でも褐色や黒の暗色が力強い初期の作品。
原精一「北上川風景」
1908-1986、油彩、カンバス/F15号 78,000円
朝焼けだろうか、やや桃色に染まる空の下、峻厳とした量感ある山が迫る北上川の岸に身を寄せているような家並みと、鈍い色の川の流れを詩情を込めて描いている。山塊や家々には雪が残る。
長谷川利行「大サーカス」
1891-1940、油彩、板/24.2×33.3㎝(F4号)
京都山科生。大正15年(1926年)上京し、「岸田國士肖像」「大和屋かほる」「新宿風景」などの秀作を残す。放浪の果てに行き倒れ、昭和15年に東京養育院で病没。来日したドイツの「ハーゲンベック大サーカス団」を描いた中の一枚。雪か雨の日なのか、手前左のテントの入り口の塔や人の影がぬかるみに映っているように見える。東美鑑定証付き。=売約済み
長谷川春子「牧場の家族」
1897-1967、油彩、カンバス/21.4×27.1㎝
東京の女子名門校、雙葉高等女学校卒。梅原龍三郎に油絵を学んだ。渡仏は1929(昭和4年)~31年で、カンバス裏に1931年作の年記がある。丘の上で憩う母子と父親、向こうに牛。聖母子像にも見える温かな家族愛の一枚。=売約済み
平野遼「壁の変容(仮)」
水彩、紙/39.4×32.0㎝ 30,000円
コンクリートの壁が有機物化して何か見知らぬものに力ずくで生成され、誘い込まれるような、おののきを感じさせるような作品になっている。
平野遼「磯にて(仮)」
1925-1992、水彩・ペンほか、紙/25.7×21.0㎝ 51,000円
1943年に野砲通信兵となり、除隊後、北九州の小倉市の肖像画塾に学んだ。上京し東京駅や新宿で似顔絵を描くなど5年間、窮乏生活を送る。ルドンやジャコメッティの影響を受ける。初期は幻想画的な作品が評価された。57年北九州の若松市の画廊喫茶「ドガ」で小個展。食事代金の代わりに小品を置いていくなど、ドガの店主とは懇意になり店に多くの作品を残した。これはその中の一点で、ウミウシのようなものが青い目をした魚を襲っているといった風だ。
福沢一郎「月と子供」
1898ー1992、油彩、カンバス/F15号 360,000円
1924年(大正13年)に渡仏。ジョルジュ・デ・キリコやマックス・エルンストの影響を受け、シュルレアリズムを日本に持ち込み実作に挑んだ。39年に美術文化協会を設立し、戦前の前衛美術をリードした。代表作に「他人の恋」「牛」など。戦後の59年の作品で、三日月、提灯、踊る子供など日本の村祭りの夜を思わせる。青い三日月などの色彩の組み合わせが美しい。
二見利節「朝の化粧」
1911-1976、油彩、カンバス/F8号 72,000円
井上三綱に師事し、1933年(昭和8年)、22歳の若さで春陽会展で初入選した。39年、40年と2年連続、文展で特選。長谷川利行の親友でもあった。代表作に「T子」「横たわる女」など。応召し戦後は国画会で鳥海青児らと親交を持った。56年失火により大半の作品を焼失したが、これはその前の52年作で、比較的初期の作品。
船川未乾「三人の裸婦」
1886-1930、油彩、カンバス/F4号
京都市宇治の旧宮司の家に生まれる。大正11年咲子夫人とともに渡仏し、キュビスム的な作品を描いていたアンドレ・ロートに師事。ピカソ、ブラック、ビシェール、ブラマンクらと交友し特にブラックの影響を受けた。早世し結局、一回の回顧展も開かれず一冊の画集も出ていない。確認されている作品の数もごく少ない。=売約済み
普門暁「花魁(おいらん)」
1896-1972、油彩、板/F4号 170,000円
大正9年9月に二科展落選を不満として、木下秀一郎、渋谷修、亡命ロシア人画家パリモフ、ブルリュークらと未来派美術協会を設立。ところが、翌年8月に「花の小曲」を二科展に出品。東京の会員の不平を買い、11年元旦付けで離れた。動性の残像を描くような、いわゆる未来派の技法の作品を先んじて残した。禿(子供)の袖口や背景の描き方にその特徴が見える。板裏に「一九二四年二月作」とある。
古澤岩美「ざくろ」
1912-2000、油彩、カンバス/SM
戦前の1930年代、池袋モンパルナスの一員として小熊秀雄や寺田政明、麻生三郎らと交流。美術文化協会創立に参加しシュルレアリスム絵画を描いた。戦中は中国戦線で従軍し、敗戦・捕虜の生活を経て帰国。これはシュルレアリスムの小品。1949年作。=売約済み