取扱い作家・作品名など
高橋忠弥「中国の鍛冶屋」
1912-2001、油彩、カンバス/F8号 130,000円
昭和11年上京。戦中は新聞社、通信社の特派員として中国に渡った。40年渡仏。本の装幀も多い。中国時代の鍛冶屋などの街の風景。
津田正周「ポン・テ・ザールよりシテを望む」
1907-1952、油彩、カンバス/18.8×24.4㎝ 650,000円
セーヌ川に架かりパリの一区と六区をつなぐ橋ポンデザールから、ノートルダム大聖堂やサント・シャペルなどが建つシテ島を描いた一枚。1936年作とあり、2回目の渡仏時に描いたもの。
津田青楓「裸婦」
1880ー1978、コンテ、紙/61.0×45.5㎝
1907年(明治40年)に渡仏し、荻原守衛、高村光太郎らと交遊。プロレタリア運動に加わり描いた「ブルジョア議会と民衆の生活」が有名。33年に警察に検挙され転向。転向前の30年(昭和5年)作。力強い後ろ姿がたくましい生命力を感じさせる。髪型などからアジア系の女性と思われる。=売約済み
鶴岡政男「白い砂」
1907-1979、油彩、カンバス/SM
太平洋画会研究所に学び、靉光、井上長三郎らと親交。池袋モンパルナスの一員。応召を経て昭和18年靉光、麻生三郎、松本俊介らと新人画会を結成。戦後には自由美術協会に合流し、代表作の「重い手」「夜の祭典」など。娘のような年齢の新宿の女「ポコ」を連れ歩き描いた。優しい色調のパステル画も得意とした。白い浜と海、日光浴の足と泳ぐ人の足が何かおかしい。=売約済み
東郷青児「女性像」
1897-1978、エッチング、紙/35.5×28.7㎝ 65,000円
大正8年から昭和3年まで滞払。初期のキュビズムなどの前衛の作風から、戦後はいわゆる青児スタイルの女性像に転じた。エッチングによる鋭い線描や乳白色の冷たい磁器を感じさせるフォルムが魅力的な女性像。比較的初期の版画作品。
中筋幹彦「静物」
1925-1956、油彩、ボード/27×17.5㎝ 240,000円
大阪生。東大中退。森芳雄と親交し、自由美術協会会員となったが、翌年30歳の若さで死んだ。遺作展が銀座サエグサ画廊で遺作10余点により開かれた。確信的な強い筆勢で、静物画でありながらシュールで表現主義的な雰囲気が漂う。
中山正實「少女と鳥」
1898-1979、油彩、板/F3号
1924年(大正13年)に渡欧し、サロン・ドートンヌに入選。イタリアに赴き、壁画を研究した。27年に帰国。32年からは壁画制作に専念した。中世南欧風の樹下の少女の愛すべき小品で、裏書きに「1927年 ムードンのアトリエにて作」とあり、反転したものが、翌28年の大作「新秋」のモチーフの一つにもなっている。=売約済み
野見山暁治「シャルルロワ(ベルギー)の街」
1920-、油彩、カンバス/F8号
福岡県穂波村の炭鉱経営者の子として生まれた。1952年渡仏し、58年安井賞受賞。64年に帰国し、抽象的な心象画の作風に転じていった。「四百字のデッサン」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。無言館設立にも奔走。54年ベルギー旅行中、炭鉱町シャルルロワのぼた山風景に心を動かされスケッチし、油彩数点を描いた。これはその中の一点。石炭を運び出していたと思われる崖下の線路と街並みを、上下に深みのある視点と独特の色感でとらえている。1955年作。=売約済み
野口謙蔵「秋」
1901-1944、油彩、板/23.8×33.0㎝(F4号)
滋賀県生。大正13年(1924年)に東京美術学校を卒業し、故郷の蒲生に帰った。そのまま、ひたすら近江の田園の四季や農村風景を描き続けて、日本的な土着のフォービズムと評された。昭和19年、43歳の若さで死去。野分の頃の暗く雲が垂れ込める草原をみずみずしい色彩で切り取っている。額は東京の上野桜木町の著名な額屋、浅尾拂雲堂の昔のものかもしれない。=売約済み
鍋井克之「静物」
1888-1969、油彩、カンバス/F12号
大正13年に小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。渡欧作も残した。ランプ、人形、果物、扇風機などの昭和の静物のアイテムを網羅し色彩も濃厚。昭和27年作。=売約済み
難波田史男「少女」
1941-1974、水彩・インク、紙/13.5×19㎝ 250,000円
難波田龍起の次男。早稲田大学美術科卒。初期のイラスト的な作風から「内なる物語」を表現する方向へと転じた。少女の不可解で不思議な内面を描いたかのような作品。
西田勝「岬」
1918-1974、油彩、カンバス/F3号 90,000円
昭和14年より新制作展に出展。新作家賞、岡田賞をとり、古茂田守介と並んで新制作協会の星と嘱望された。守介のデスマスクを描いた。海と空の青が美しい。
早川国彦「東京風景 数寄屋橋畔」
1888-1946、水彩、紙/26.8×36.8㎝ 55,000円
岐阜県生。上京して太平洋画会研究所に学ぶ。大正9年(1920年)日本水彩画会会員。昭和17年(1942年)二科賞、二科会員となる。まだ外堀に数寄屋橋が架かっていた頃の秋深い銀座風景。目抜き通りを都電が走り、橋上には人々が行き交う。濃い灰青色の水上には2艘の舟。画集「日本の水彩画6」(第一法規出版)に早川の作品が収められている。
林重義「カフェ」
1896-1944、油彩、カンバス/F6号 105,000円
明治29年(1896年)兵庫県神戸市生。大正15年に二科賞。昭和3年から二年間渡仏し、サーカスやパリの街の風景などを好んで描き、「ラ・フラテリニ」や「シルク」などが高評価された。一躍神戸出身のホープとして期待を集め、「舞妓(黒)」など「日本的油絵」を標榜して新展開を目指したが、志半ばで没した。渡仏作。パリのカフェの外のテーブルで憩う男女。その衣服の赤と青が効果的だ。
林重義「パリ郊外」
1896-1944、油彩、カンバス/F4号 390,000円
神戸市生。一九三〇年協会を経て独立美術協会創立会員。昭和3年(1928年)~5年渡仏し、街の夜のピエロや花売りなども描いた。帰国後は舞妓など日本的な題材の「新写実主義」へと転じた。19年、43歳で没した。パリ郊外の土と緑の風景を描いたもの。嵐を呼ぶような暗く激しい雲の流れの下を、奥の山並みへとひた走る馬車、道に沿う葉を落とした樹々、民家の屋根、電信柱。画面右下にサイン。
林倭衛「女の子」
1895-1945、パステル、紙/34.0×26.9㎝ 120,000円
林倭衛は大杉栄らの無政府主義者と交流し、大杉がモデルの「出獄の日のO氏」で広く知られる。出所は新宿の文壇バー「風紋」の元マダムで今年2月に亡くなった倭衛の娘の聖子さん。倭衛が少女時代の聖子さんを描いたものらしい。「林倭衛展」画集(2015年・東御市梅野記念絵画館)所載。同画集付き。
林倭衛「プロバンス小村」
1895-1945、油彩、カンバス/F15号
1921(大正10年)~26年、1928~29年の2回にわたり渡仏。南仏プロバンスの明るい陽光が惜しげもなく降り注ぐ緑濃い小さな村の情景を描いたもの。塀沿いのかげった道に瑠璃色の服を着た女性がたたずむ。東御市梅野記念絵画館「林倭衛画集」(2015年)所載。=売約済み
林倭衛「果物図」
1895-1945、油彩、カンバス/F3号
林倭衛は2回にわたって渡欧しているが、昭和初年(1926年)作とあり、最初の渡欧時の作品と推定される。果物の朱色や緑の色が鮮やかで印象的。=売約済み
林倭衛「クヰイの橋」
1895-1945、油彩、カンバス/P15号
仏パリの近くのクヰイの橋は数点描いており、その中の一点。鈍い色の空の下、橋と手前に蛇行した流れ、その向こうの2軒の建物と木立を情感を込めて描いている。2回目の渡仏の1928年作。カンバス裏にサインと題名。小崎軍司著「林倭衛」の口絵に所載。=売約済み
原勝郎「モンマルトル」
1889-1966、油彩、カンバス/F12号 720,000円
千葉県生。大正9年(1920年)に渡米し、11年仏パリに移る。パリの何気ない街景などを茶かっ色系ほかの渋い色調で情感豊かに数多く描き、高く評価された。サロン・ドートンヌなどに出品し画廊で複数回の個展も開いた。戦争ぼっ発により昭和14年帰国。冬のパリの曇天の街路には冬コート姿の女性が通りかかり、その先にはサクレ・クール寺院の白い尖塔が見える。昭和13年(1938年)作。
原勝郎「滞欧風景」
1889-1966、油彩、カンバス/F12号
やや朱がかった空で朝焼けなのか。明るみの中に浮き上がってくる風景。手前の枝切りをした樹々と緑のうねる地面、自動車、左手の家々と白い坂道、教会らしき建物が厚みをもって積み重なり、生動感が迫ってくる。梅野コレクション(2003年蒐)の作品。=売約済み
長谷川昇「鼓(舞妓)」
1886-1973、油彩、カンバス/F12号 180,000円
福島県生、北海道小樽で育つ。東京美術学校在学中に院展に初入選。卒業後、明治44年(1911年)渡仏。ヴァン・ドンゲンらと交友し 、ルノワールに傾倒した。パリの画廊で個展。ルノワールの影響が色濃く、色彩が鮮やかで美しい戦前の比較的初期作品と推定される。
長谷川春子「木陰の憩い」
1895-1967、油彩、カンバス/f6号 187,000円
東京生。昭和4年(1929年)に渡仏し6年に帰国。三岸節子らと「七彩会」を旗揚げし「我等の開拓しようとする美しい野はまだ無人の境です」と述べ女性画家の地位向上を目指した。戦中は節子、桂ゆきらと「大東亜戦皇国婦女皆働之図」(1944年)を制作。戦後は随想や挿絵のほか、「源氏物語絵巻五十四帖」を残した。二つの大戦に挟まれた木漏れ日の時代に目撃した幸福なパリジェンヌたち。1932年作。
板東敏雄「室内」
1895ー1973、水彩、紙/38,4×27,2㎝
徳島県生。川端画学校で学び、大正11年(1922年)渡仏。同じ船で渡った上山二郎と共に藤田嗣治に私淑し、その卓抜した描写力を藤田にも認められた。サロン・ドートンヌに入選するなど各サロンで活躍し、フランス女性と結婚。終生制作の場をパリから移そうとはしなかっため、その独自の細密技法の仕事が日本で広く知られることはなかった。自らの居室(画室)を親しみを込めて描いた珍しい水彩画。=売約済み
藤田嗣治「フランスの学校(墓地)」
1886-1968、リトグラフ、紙/18.0×18.0㎝ 110,000円
子供に恵まれなかった藤田は戦後、愛らしい少女像をよく油彩で描き、版画の題材にも子供を多用した。ジャン・コクトーのエッセイに藤田の21点のリトグラフが添えられた挿画本「四十雀」中の藤田作の一点。松本竣介も影響を受けたという濃緑の寒色系が支配する藤田の風景だが、早春なのか街路樹の枝先には若葉が萌え出している。
ジュール・パスキン「三人の女(仮)」
1885ー1930、ペン、紙/14.8×31.8㎝ 98,000円
ブルガリア生まれ。ミュンヘンの「ジンプル」誌での挿絵素描を経て、1905年のクリスマス・イブにパリに到着。モディリアニ、キスリング、フジタ、スーチンらと共にエコール・ド・パリを代表する一人として人気を得た。女たちのポーズを素早くスケッチしたもの。スタンプサイン、「Lucy Krohg」サイン、証明書付き。